16万時間削減、その先に経営判断支援も
印刷インキや化学品を手がける大手メーカー・artience(旧・東洋インキSCホールディングス)が、AIを全社に導入し、年間16万時間分の業務削減を目標とする計画を発表した。2026年5月29日、ITサービス企業のTISとの提携を公表した。同社の発表によれば、対象は全社の間接業務・研究支援業務で、段階的に自動化範囲を広げることで達成を目指すという。
今回導入するのは、TISが提供する自律型AIシステムだ。「自律型AI」という言葉に聞き慣れない読者も多いだろうが、これまでのAIは「聞いたことに答えるだけ」だった。自律型AIは違う。目標を与えると、自分で情報を調べ、必要な作業を順番にこなし、最後まで仕事を終わらせる。人が手を動かす部分を、AIが代わりに引き受ける仕組みだ。
artienceが16万時間という目標を立てているのは、思いつきではない。同社の中期経営計画「artience2027/2030 GROWTH」の核となる施策として位置づけられており、3段階のロードマップで自動化の範囲を広げる。化学品を扱う企業として、機密管理や部門ごとの閲覧権限といったガバナンス要件も、システム選定の決め手のひとつになった。
そして、この計画が単なる「業務効率化」で終わらない点がある。artienceが最終的に目指すのは、素材開発の方向性や新規事業への投資判断といった、経営の核心にあたる意思決定へのAI活用だ。同社はこれを中期計画に明記しており、国内製造業でここまで踏み込んだ目標を全社規模の計画として打ち出した事例は多くない。
段階的な自動化ロードマップ
では、具体的にどう進めるのか。ロードマップを整理すると、3段階の変化が見えてくる。フェーズ1は「AIに事務作業を代行させる」段階。フェーズ2は「製造現場の専門知識をAIに持たせる」段階。そしてフェーズ3は「AIが自分でデータを集め、判断の材料まで用意する」段階だ。
フェーズ1で自動化されるのは、どの会社でも日常的に発生している事務作業だ。すでに全社展開されており、その一例が「論文監視システム」だ。毎年、世界では膨大な数の学術論文が新たに公開される。化学品メーカーにとって、その中から自社の研究に関係するものを探し出す作業は、専門知識と相当な時間を必要とする。RPA(定型作業を自動でこなす仕組み)と生成AIを組み合わせたこのシステムが、世界中の学術論文を24時間チェックし続け、関連するものを日本語に翻訳して要点をまとめ、研究員に届ける。会議の録音から議事録を仕上げる作業も同様に自動化されている。担当者が「やっておいて」と指示するだけで、AIが処理を最後まで完結させる。
フェーズ2になると、舞台は製造現場に移る。化学品の生産には、ベテランだけが持つ経験則がある。「この色ムラはどこを調整すれば直るか」「この品質問題、過去にはどう対処したか」——こうした知識はこれまで、熟練した技術者の頭の中にしかなかった。artienceはその知識をAIに学習させた。現場の担当者がAIに問いかけると、すぐに答えが返ってくる。ベテランが隣にいなくても、ベテランと同じ答えを引き出せる環境が、製造現場に広がっている。
この2段階はすでに全社展開されており、業務時間の削減効果が数字に表れ始めている。artienceはこの国内での実績を足がかりに、海外拠点への展開も視野に入れている。
フェーズ3は、作業の自動化とは次元が違う。artienceが目指すのは、社内外の情報をAIが自ら収集・整理し、「この素材への投資は今が適切か」「どの研究開発テーマに予算を振り向けるべきか」といった経営判断の前さばきをAIが担う姿だ。
具体的な実装はフェーズ2完了後に固まる部分が大きく、今回の発表では詳細は示されていない。ただし方向性は一貫している——人間が最終的に判断を下すことは変わらないが、その材料をAIが用意する。「聞かれたら答える道具」から「聞かれる前に動く参謀」へ、というのがartienceの描く絵だ。
