一人の研究者の退社が、1日で約43兆円を消した。
ノーベル賞受賞者の退社で株価急落
2026年6月19日、ジョン・ジャンパー氏がX(旧Twitter)に短い投稿をした——Googleの人工知能研究部門「DeepMind」を去り、AIスタートアップのAnthropicへ移ると。
ジャンパー氏は、AIを使って生命科学の50年来の難問を解いた科学者だ。「タンパク質がどんな形に折りたたまれるか」は、新薬の開発に直結する重要な謎として1960年代から世界中の研究者を悩ませてきた。彼が開発した「AlphaFold」というAIがその答えを出し、これまで数年かかっていた研究を数か月に縮めた。2024年、ジャンパー氏はこの業績でノーベル化学賞を受賞している。
発表の翌週月曜日、6月22日。Googleの親会社Alphabetの株価は1日で約7%下落した。消えた時価総額は約2,690億ドル——43兆円を超える。Alphabetにとって過去1年で最大の単日下落だった。
DeepMindのCEO、デミス・ハサビス氏は即座にXへ投稿した。「ジョンは世界を変えた」と。退社する社員にCEOが公の場で言葉を贈ることはめったにない。その行動自体が、この退社がいかに大きな出来事かを物語っていた。
では、なぜノーベル賞受賞者はGoogleを去ったのか。
DeepMindで科学から外されていた
答えは、ジャンパー氏がDeepMind内でやらされていた仕事にある。
ブルームバーグなどの報道によれば、ジャンパー氏は退社前、生命科学の研究ではなく、企業のエンジニア向けプログラミング支援ツール「Gemini Code Assist」の開発チームを率いていたとされる。プログラマーが書いているコードの続きをAIが自動で予測・補完するような、業務効率化のためのソフトウェアだ。50年来の難問を解いてノーベル賞を受賞した科学者が、そのツールの担当責任者——その配置転換が、離脱の背景として報じられた。ジャンパー氏本人もDeepMindも、この件について公式なコメントは出していない。
なぜそうなったのか。2023年、GoogleはAI研究の二大部門だった「Google Brain」と「DeepMind」を一つの組織に統合した。この統合を境に、Googleの優先順位は変わったとされる。科学的な発見より、競合のChatGPTに対抗できるAI製品をいかに早く世に出すか——純粋な研究組織から、事業会社のロジックへのシフトだ。
科学者が科学をやれなくなった。それがこの離脱の核心だ。移籍先のAnthropicは、この年の2月にアレン研究所やハワード・ヒューズ医学研究所といった科学研究機関との提携を発表している。ノーベル賞の理由になった研究から外された科学者が、科学をやれる場所を選んだ。Anthropicでジャンパー氏は、生命科学・医療領域でのAI研究を担う役職に就くとされている。
1週間でDeepMind研究者4人が離脱
ジャンパー氏の発表は6月19日だった。だが同じ週、Googleではほかにも動きがあった。
6月18日、ノーム・シャジール氏がGoogleを去り、OpenAIへ移ると報じられた。シャジール氏は、ChatGPTをはじめ今日のほぼすべてのAIの土台となった技術の生みの親だ。Googleが彼を2024年に呼び戻すために投じた費用は約30億ドル(約4,300億円)とブルームバーグが報じている。それがわずか2年足らずで、今度は競合のOpenAIへ移った。
ジャンパー氏の翌日にも動きがあった。ジョナス・アドラー氏とアレクサンダー・プリッツェル氏——いずれもDeepMindの研究者——がAnthropicへ移籍することが明らかになった。特にアドラー氏の件には、ある皮肉な構図がある。彼はGoogleが直前に立ち上げたばかりの「AIコーディング特別チーム」の中核を担う人物だった。コーディングツールのために科学者を配置転換した組織が、そのコーディングチーム自体のキーパーソンまで失った。
6月18日から約1週間で、Googleから4人の主要研究者が出た。1人の転職は個人の事情だ。2人でも偶然とも取れる。だが4人が同じ週に、競合するAI企業へと向かった時、それはもはや「個人の選択」では説明がつかない。
次のAI競争は科学応用が舞台
ChatGPT以来、AI企業の競争は「どのモデルが賢いか」という軸で動いてきた。しかし今、向いている先が少しずつ変わっている。
創薬、材料開発、医療研究——これまで人間の研究者が何年もかけてきた作業を、AIが代わりに加速する。「科学的発見のためのAI」と呼ばれるこの分野への関心は、製薬会社や研究機関を中心に急速に高まっている。AlphaFoldはすでにその先駆けだった。その研究成果は世界中の研究者に無償公開され、新薬開発の加速に活用されている。
Googleから出た研究者たちが、Anthropicの科学AI部門に収まっていく。AlphaFoldで新薬開発の時間を変えた科学者が、次に何を解くのか——それはまだわからない。ただ確かなのは、科学の最前線でどのAIが選ばれるかという競争が始まっているということだ。1週間で4人の研究者を失ったGoogleが、その競争で優位に立てるかどうかは、決して自明ではない。
