毎朝、あなたはIDとパスワードを入力して会社のシステムにログインする。そのIDが、「誰がどこまでアクセスできるか」を決めている。AIが職場に入り込んだことで、その仕組みが根本から変わりつつある。人間だけでなく、AIもまた大量のIDを持って社内システムを動き回るようになったからだ。
AIで「見えないID」が急増する
マシンIDが人間の82倍に
AIが業務を代行するとき、そのAIもまた社内システムにアクセスする。メールを読み、書類を作り、別のツールに指示を出す。そのためには、人間の社員と同じようにIDが必要だ。
こうして「人間のID」と「AIやシステムのID」が、会社の中に並存するようになった。Saviyntが実施した調査によれば、その比率は今や1対82。人間のIDが1つあれば、機械側のIDはその82倍存在する計算になる。
AIツールを1つ導入するたびに、APIキー(システム同士が連携するための合鍵のようなもの)やOAuthトークン(外部サービスへの入場証のようなもの)が積み重なっていく。担当者が意識しないうちに、会社の中には大量の「機械の鍵」があふれていく。
野良AIが権限を握るリスク
問題は、数が多いことではない。「見えない」ことだ。
鍵を何千本もコピーしたのに、誰に渡したか台帳に記録していない——今の企業のシステムはこれに近い状態にある。Saviyntの調査では、CISOの71%が「AIはすでに自社の中核システムにアクセスしている」と認めている。にもかかわらず、そのAIのIDを把握できていると答えた企業は1割にも満たない——91%は、動いているIDを把握できていない。
日本はとりわけ厳しい立場にある。同調査によれば、社内で何か問題が起きていないかリアルタイムで検知できると答えた国内企業の割合はわずか32%。調査対象の中で最も低い水準だ。AI導入を急ぐほど、管理の空白が広がる——その矛盾を前に、ID管理を専門とする企業が日本市場に動き始めた。
米Saviyntが日本に新会社を設立
その企業の名はSaviynt(サビイント)——IDを誰が持ち、何にアクセスできるかを一元管理することに特化した米企業だ。2026年6月4日、SaviyntはIT商社の株式会社アシストと共同出資で「Saviynt Japan株式会社」を設立した。出資比率はSaviyntが65%、アシストが35%。代表取締役には米本社COO(最高執行責任者)のシャンカー・ガナパシー氏が就任し、本社を東京都港区アークヒルズに置く。2028年末までに40人体制を目指すという。
Saviyntが「なぜ今、日本なのか」を語るとき、必ず持ち出すのが先の32%という数字だ。AIが急速に社内へ浸透しているにもかかわらず、その動きを追う仕組みが最も遅れている市場。この「遅れ」が、参入根拠だ。
アシストをパートナーに選んだのも、同じ「日本特有の課題」への答えだ。海外製セキュリティ製品が日本で定着しない理由の多くは技術ではなく、導入後の手厚い支援体制の有無にある。外資系ベンダーが直販するだけでは、日本企業が求める「伴走型サポート」には応えにくい。アシストはIT製品の導入支援で長年の実績を持ち、その役割を担う。
バックボーンについても触れておく必要がある。Saviyntは2025年末、投資ファンドのKKR主導で7億ドルの資金調達を完了している。ID管理の領域にはSailPointやSAP、IBMといったグローバル大手も存在するが、Saviyntは人間のIDとAIのIDを同じ基盤で管理することへの特化という点で軸を絞っている。
Saviynt製品は何が違うか
では、この企業が日本に持ち込もうとしているのは何か。
製品の核心は2点だ。これまで企業の中でバラバラに動いていた複数のID管理ツールを一つに統合すること、そしてAIのIDも人間と同じ仕組みで管理できるようにすること。
承認作業を自動化する
ID管理の現場で最も時間を取られる作業が、権限の承認だ。社員がシステムへのアクセスを申請するたびに、担当者が内容を確認して判断する。社員が多く、AIが増えるほど、この作業量は膨れ上がる一方だ。
SaviyntのAI機能「SaviAI」は、過去のデータをもとにこの判断を自動化する。承認作業の75%をAIが代行し、担当者が目を通すのは例外ケースだけになる。
ID管理を単一基盤に統合
こうした効率化を支えるのが、プラットフォームの構造だ。
従来、企業のID管理には複数のツールが必要だった。一般社員向け、システム管理者向け、社内監視用——それぞれ別々の製品として動き、データも連携していなかった。Saviyntはこれらを「統合ID管理基盤」と呼ぶ一つのクラウドに集約した。一つの画面で、人間の社員もAIエージェントも同じ仕組みで管理できる。
さらに2026年3月、AIエージェント専用の管理製品「Identity Security for AI」をリリースした。AIのIDを検出し、最小限の権限だけを与え、実行中に「この操作を許可するか、拒否するか」をリアルタイムで制御する——この一連の流れを一つの製品で完結させたのは、エンタープライズ向けとして初めてだという。
日本企業のID管理は何が変わるか
製品の仕組みは分かった。では日本の企業に、実際に何が変わるのか。答えの一端は、すでにある。
LIXILの事例が示すもの
移行前のLIXILは、拠点ごとに異なるシステムが並立する状態だった。日本の基幹システム、海外現地法人のツール——IDを管理する仕組みはバラバラで、「誰がどこにアクセスできるか」の全体像を把握するのは容易ではなかった。
Saviyntの導入で、世界150カ国・53,000名分のIDがひとつの基盤に集約された。拠点ごとにバラバラだったツールが、一画面で統一された。先行した大企業がある——それは後から動く企業にとって、リスクを判断する実例になる。
日本法人設立で何が変わるか
これまで外資系セキュリティ製品を日本企業が導入する際には、共通の壁があった。英語主体のサポート体制、個人情報保護法への対応の不透明さ、そして何か問題が起きたときに「すぐ相談できる窓口がない」という不安だ。
Saviynt Japanの設立は、この構造を変えるための動きだ。国内サポート・日本語対応・コンプライアンス対応を内製化した体制を、国内に持つことになる。初期のターゲットは数万ID規模を持つ大手企業。グローバルベンダーの導入を阻んできた障壁が一段低くなり、選択肢が増えたことは確かだ。
ただしAIの導入は止まらない。「機械のID」は増え続け、管理の空白も広がる。LIXILのような先行事例が積み重なる一方で、整備が追いつく前に大きなインシデントを迎える企業も出てくるかもしれない。AIが当たり前になる世界で、日本企業が今いるのはそういう分岐点だ。
