「また会議か」と思いながら椅子に座った経験は、多くの人にある。問題は分かっていても、「この会議は機能していない」という事実を示す方法がなかった。会議の進行役(ファシリテーター)の腕前は「なんかうまくいった気がする」という感覚でしか評価されず、改善の根拠にもなれなかった。リコーと三菱電機が6月3日、電波で会議室の「場の空気」を数値化するセンサーの実証実験を開始した。カメラも個人特定も使わない、これまでになかった試みだ。
リコーと三菱電機が実証実験を開始
港区の共創拠点で始まる
実験の場所は、東京・港区にあるリコーの共創拠点「RICOH BIL TOKYO」。三菱電機が開発した感情推定センサー「エモコアイ」が9台設置され、実際にワークショップに参加した人たちの心理状態をリアルタイムで測定している。
エモコアイは電波を使って人体の微細な動きを捉え、参加者の心理状態を4つの数値として出力する。カメラは使わない。顔や名前などの個人情報は一切記録されず、会議室全体の「場の空気」を数値として可視化する設計だ。
このセンサーのデータは、リコーが開発したAIシステムと組み合わせて使われる。ワークショップ中の発言を自動で分類し、付せんのように整理して大型画面に投影する。進行の変化と参加者の集中状態がリアルタイムで並んで表示されるため、「問いかけを変えた瞬間に場の空気が変わった」という場面を後から確認できるようになる。
2カ月間の予定と次の展開
実証実験は約2カ月間を予定している。両社はこの期間に、センサーが出力する数値がファシリテーターの実感と実際に対応しているかどうか、そのデータをどう改善に活かせるかを検証する。2026年度内の商用サービス化を目標に掲げており、今回の実証がその判断材料となる。
電波が「場の状態」を4つの数値にする
心拍変動から状態を推定
仕組みを一言で言えば、「心臓の動き方を電波で読む」だ。
センサーは電波を室内に向けて発射し、人体に当たって跳ね返ってきた波を受信する。胸は心臓が鼓動するたびにわずかに動く。その微細な動きが、反射波のパターンに現れる。それを解析することで、カメラも体に触れる機器も使わずに、心拍のリズムをとらえられる。計測は最短30秒ほどで始まり、その後も継続的にデータが更新されていく。
精神状態と心拍のリズムには関係がある。深く集中しているとき、緊張しているとき、眠くなっているとき——それぞれでリズムのパターンが変わる。エモコアイはこの変化をアルゴリズムで処理し、4つの数値として出力する。「どれだけ深く集中できているか(没入度)」「活気や緊張の度合い(活性度)」「眠くなっていないか(眠気度)」「心身の疲弊度合い(消耗度)」だ。
この4つが時系列グラフとして記録される。会議室の雰囲気が、数値の推移として可視化される。
「それ、監視ではないのか」——この疑問は当然だ。エモコアイが取得するのは、電波の反射パターンだけだ。顔を認識するカメラはなく、誰が部屋にいるかを識別する機能もない。名前や社員番号といった情報は一切使わない。測定対象は「この部屋全体の、今この瞬間の状態」であり、個人のデータではなく空間のデータに近い。三菱電機は個人特定を技術的に行えない設計にしていることをリリースで明示している。センサーが測れるのは「場の没入度」であって「Aさんの没入度」ではない——この区別が、この技術のプライバシーへの答えだ。
ファシリテーターの効果をデータで示す
進行の切り替えと没入度の変化を時間軸で重ね合わせれば、「あの問いかけを変えた瞬間に全員の没入度が跳ねた」という事実が記録として残る。うまくいったかどうかが「感想」ではなく「記録」になる。
再現性という観点から見ると、この変化は大きい。優れたファシリテーターが何をしているのかは、外から見えにくかった。なぜそのタイミングでその問いを入れたのかは、本人の経験と勘の中にしかなかった。どの働きかけが没入度を動かすかがデータで示されれば、それは言語化できる技術になる——他の人に伝えられる、訓練できる形に変わる。
その裏で、ファシリテーターの腕前は客観的に問われる対象にもなる。「あの人のワークショップはいつもいい感じだ」という評価に、根拠が求められるようになる。属人的なスキルとして守られてきた領域に、データが入ってくる。それをどう受け止めるかは、使う側次第だ。
今回の実証が現時点で想定しているのは、「データを人間が見て改善に活かす」段階だ。
AI自動介入まで視野に入れた将来構想
三菱電機はすでに2025年のCEATEC(テクノロジーの大型展示会)で、集中力の低下をセンサーが検知した瞬間にロボットが自動でコーヒーを配るデモを披露している。センサーが場の変化を捉え、何かが自律的に動く——そのプロトタイプはすでに存在する。データが会議に「介入」するとはどういうことか、その問いは現実のものになりつつある。
ロボットがコーヒーを配るのは序章にすぎない。両社が検討しているのは、センサーが検知した変化をトリガーに、AIが会議の流れそのものに働きかける機能だ。
集中度の低下を検知したとき、関連する資料を自動で画面に表示する。あるいは、ファシリテーターに「視点を変える問いかけを試してみてください」と提案する——こうした自動介入の可能性が将来構想として視野に入っている。照明や空調を自動制御して部屋の環境を変えることも、検討されている選択肢のひとつだ。ただし、これらはいずれも構想の段階だ。今回の実証が扱うのは「可視化」まで。AIが自律的に動くのは、その先のフェーズになる。
三菱電機はエモコアイを使った感情推定サービスをすでに法人向けに提供している。これまでは作業中の疲労検知や集中力のモニタリングなど、人の状態を継続的に把握する用途での活用が中心だった。今回のリコーとの実証実験は、その会議・ワークショップ特化版という位置づけだ。単体の感情推定にとどまらず、進行の流れと心理状態の変化を重ね合わせることで、「何が場を動かしたのか」を読み解くことを目指している。
両社が描く商用化の形は、サブスクリプション型のサービスだ。2026年度内の提供開始を目標に掲げており、今回の2カ月間の実証でデータの精度と活用方法を検証する。
「没入度が落ちています」とAIが通知してくる会議室が現実になったとき、それを支援と受け取るか監視と感じるかは、人によって違うだろう。データが場に入ることで、ファシリテーターの腕前は可視化される。スキルの磨き方が変わるかもしれないし、評価の軸が変わるかもしれない。センサーが測るのは4つの数値だが、その数値をどう使うかという問いは、ずっと人間の手の中にある。
