2026年6月9日、日立製作所とGoogle Cloudが2年越しの提携を大きく前進させると発表した。電力・鉄道・製造業など、社会の根幹を支えるインフラへのAI展開が本格的に始まる。この計画には珍しい特徴がある——日立は顧客に売り込む前に、まず自社の工場でAIを実際に動かし、結果を確かめていた。
提携を「社会実装」フェーズへ拡大
日立とGoogleが最初に提携を結んだのは2024年5月のことだ。当初は、日立の現場でGoogleのAI技術が本当に役立つかを試す段階にあった。今回の発表はその次のフェーズへの移行を意味する。フィジカルAIの展開、現場への専任エンジニアチームの常駐、AIを活用したサイバーセキュリティ対策——この3本柱を軸に、社会インフラへの本格的な実装に踏み出す。
「フィジカルAI」とは、AIの判断を機械や設備の実際の動きに直結させる技術だ。スマートフォンで使うような「質問に答えるAI」とは根本的に異なる。工場のカメラが捉えた映像をGoogleのAIがリアルタイムで解析し、異常を検知すれば設備が自動で対応する。その結果をまたAIが学習し、精度を高めていく。人の判断を介さず、設備が自律的に動き続けるサイクルだ。
日立はこの仕組みをまず自社で試した。茨城県日立市にある大みか事業所で、制御盤の配線コネクタの異常を検知する検査にAIを導入したところ、欠陥の検出率100%を達成した。「まず自分たちで使い、成果を示してから顧客へ展開する」——日立はこのアプローチを「カスタマーゼロ」戦略と呼ぶ。この実証が、今回の本格拡大の根拠になっている。
現場に入る実装チーム
大みか事業所での成果を顧客に届ける役割を担うのが、現場常駐チームだ。日立はこの仕組みを「FDE(Forward Deployed Engineers)」と名付けている。日立のコンサルタント、日立が買収した米国のシステム開発会社のエンジニア、Googleのエンジニアがチームを組んで顧客のオフィスや工場に常駐し、課題の発見から実際の業務への組み込みまでを一気通貫で担う。コンサルティング会社が提案書を渡して引き上げるのとは違い、動くものができるまで現場から離れない。
このFDEが持ち込む武器が、自社実験で積み上げた知見だ。日立グループ全体で約28万人の従業員がすでにAIを活用しており、1,000件を超える事例が蓄積されている。顧客の工場で問題が出たとき、FDEは「グループ内で似たケースを何十件もこなしてきた」という経験を持ち込める。ゼロから考えるのではなく、証明済みのやり方を速く転用できる。
従来のシステム導入は「発注者が要件を渡し、開発会社が作って納品する」という構造が一般的だった。FDEはその前提を変える。カスタマーゼロで鍛えた技術を、現場常駐チームが直接届ける——この方式が実際のビジネスに反映され始めている。日立の鉄道事業では、このアプローチで積み上げた商談の見込み総額が6,000億円を超えた。
インフラの自律化が進むほどセキュリティリスクも増す
だが、AIが電力網や鉄道の制御に深く入り込むほど、別のリスクが膨らんでいく。AIが設備を動かせるということは、そのAIを乗っ取れば設備も動かせる。サイバー攻撃の被害が「情報漏洩」から「停電」や「鉄道事故」に変わりうる。自律化が広がるほど、その影響は物理的な世界に直結する。
問題は、攻撃の速度も変わったことだ。AIを活用した攻撃手法の普及により、侵入から目標達成までの時間が大幅に短縮された。人間のセキュリティ担当者が異常を検知し対応を始める前に、攻撃が完了するケースが増えている。守る側が人間の速度で動いている間に、攻撃側はAIで先手を打つ。
日立が取った対応は、Googleのセキュリティ技術を防御側にも組み込むことだ。社内のセキュリティ専門チームにGoogleのAI防御技術を統合し、AIによる攻撃をAIで検知・対応する体制を整えた。インフラの自律化が広がるほど、そのシステムを攻撃することの価値も上がる。利便性とリスクは同じ速度で大きくなる。日立とGoogleが今取り組んでいるのは、その拡大と防御を同時に進めるという、答えの出ていない問いへの対処でもある。
この動きは業界に何をもたらすか
物理的な設備をAIで制御する市場は、2033年には世界で約150兆円規模になると予測されている。誰がインフラへのAI実装を主導するかを巡り、大手ITベンダー、コンサルティング会社、重電メーカーが同じ土俵に入りつつある。日立×Google Cloudの動きが先行事例として注目されるのは、自社実験→専任チームの現場常駐→顧客展開という一連のモデルを、他社より早く形にしたからだ。
日立はすでに、このモデルを支える人材育成にも着手している。AIを実務で活用できる人材を社内で認定する仕組みを整え、5万人規模での育成計画を進める。技術を届ける基盤を、技術と同時に積み上げる。
ただし、先行しているという事実と、実装フェーズに入ったばかりという事実は別のことだ。大みか事業所での欠陥検出率100%は実証の一点にすぎず、電力網や鉄道への本格展開はこれからだ。カスタマーゼロ型・FDE型の実装モデルが他の業種や規模の異なる現場にも通じるかどうか、まだ答えは出ていない。
毎朝乗る電車、家で使う電気——その制御にAIが入り込む社会は、少し先に見え始めている。誰がどのやり方でそれを作るか。その競争が今、始まったところだ。
