Amazonを世界最大のネット通販企業に育てたジェフ・ベゾス氏が、2021年のAmazon退任後初めて、自ら会社のトップに就いた。退任後の5年間、氏は投資や各種プロジェクトへの出資者として裏方に回っていた。それが今月、変わった。
ベゾス氏、退任後初のCEOに就任
2026年6月11日、AIスタートアップ「Prometheus(プロメテウス)」が120億ドル(約1.9兆円)の資金調達を完了したと発表した。ベゾス氏はこの会社の共同CEOに就いている。Amazon退任後、事業会社のトップに立つのはこれが初めてだ。
共同CEOを組む相手は、元Google X(グーグルの研究開発部門)幹部のVik Bajaj(ビック・バジャイ)氏。Prometheusは2025年11月の設立で、同年12月に公式に姿を現した。それまでは外部に明かさない状態(ステルス)で開発を進めており、現在の従業員は約150人、拠点は3都市にある。
会社の評価額は現在410億ドル(約6.6兆円)だ。設立からわずか7カ月での到達である。JPMorgan、Goldman Sachs、BlackRockといった米国を代表する金融大手がこの調達に参加した。各社の出資額は非公表だが、ベゾス氏自身は62億ドル(約1兆円)を自らの資産から投じている。
この会社が目指すのは、「ChatGPT(チャットGPT)」のような会話するAIではない。ジェットエンジンや工業製品の設計・製造を丸ごと担うAIであり、同社はその領域を「物理経済(フィジカル・エコノミー)」と呼ぶ。なぜベゾス氏は退任後初めて自らCEOに就く相手として、この会社を選んだのか。
「100人10年」を「10人1年」に
Prometheusが開発しているAIの名称は「AGE(エージ)」——「人工汎用エンジニア(Artificial General Engineer)」の略だ。ChatGPTのように文章を書いたり会話したりするAIではない。ジェットエンジンの設計から、それを製造するための指示まで、エンジニアの仕事を端から端まで担うAIだ。
対象とする製造物はジェットエンジン、自動車、半導体——間違いが許されない精密な製品ばかりだ。従来の設計は、試作品を作っては壊し、また作り直す繰り返しで成り立ってきた。AGEはその過程をコンピューター上に移す。物理的な試作品の代わりに数百万通りのシミュレーションを回し、「この形状だと熱がどう伝わるか」「この素材だと振動でどう劣化するか」を計算して最適解を導き出す。Prometheusが掲げる目標は「100人のエンジニアが10年かけてきた設計と製造を、10人のチームが1年で完遂する」こと。人数も期間も、10分の1以下にする。
ただし現時点で、この目標が商業規模で達成されたという実績は公表されていない。Prometheusは設立から7カ月、従業員約150人の段階にある。AGEの開発は初期パートナーとの検証段階にあるとされており、本格的な商業稼働はこれからだ。今回集まった資金は「実績」ではなく「将来への確信」に対して賭けられたものだ。
このAIが学ぶのは、インターネット上のテキストではない。製造現場の機械が積み上げてきたセンサーログ、振動の記録、過去の故障データだ。ChatGPTはネット上の膨大な文章から言語を学ぶが、AGEは現実の機械が刻んできた物理データから設計の判断を学ぶ。「言葉のAI」と「物理のAI」——学ぶものが違えば、できることも根本的に違う。
これほど壮大な構想に、なぜ世界の金融機関が次々と出資を決めたのか。
JPMorganが産業AIに投じた理由
今回の120億ドルを出した顔ぶれを見ると、この資金調達がいかに異例かがわかる。JPMorgan Chase(JPモルガン・チェース)、BlackRock(ブラックロック)、Goldman Sachs(ゴールドマン・サックス)——いずれも世界最大級の銀行や資産運用会社だ。新興企業に賭けるベンチャーキャピタルではなく、金融の「インフラ」と呼ばれる存在が軒並み名を連ねた。
こうした機関がAIに投資すること自体は珍しくない。ただこれまでは、会話AIやクラウドサービスといったソフトウェア分野が中心だった。今回初めて、その資金が「工場」「物理的な製造」へと向かった。
なぜ今、工場なのか。背景にあるのは「リショアリング」——製造業の国内回帰と呼ばれる動きだ。2024年以降に加速したこの流れは、かつて安い人件費を求めて海外に移転した工場を、改めてアメリカ国内に戻すことを指す。貿易摩擦や安全保障上の懸念が後押しし、政府も企業も動き始めている。
だが、ここに構造的な壁がある。アメリカは製造業の人件費が高い。工場を国内に戻しても、人手だけで回すのでは採算が合わない。AIで設計から製造指示まで自動化できれば、その問題を乗り越えられる。こうした動きはJPMorganやGoldman Sachsのような大手銀行にとっても商機だ。アメリカに戻ってくる工場に資金を貸し、その再建を支援する——産業AIが本格普及すれば、製造業の立て直しに向けた資金需要が生まれ、それ自体が巨大なビジネスになる。
Prometheusが狙うのは、航空宇宙、自動車、半導体、そして創薬——いずれも精密さが求められ、開発期間が長く、人件費の影響が大きい産業だ。AI分野全体への投資は2025年以降も拡大が続いており、中でも産業向けAIへの資金流入が急速に増えている。Prometheusの今回の調達は、そのトレンドを象徴する案件として業界の注目を集めた。
しかしベゾス氏が描く絵は、スタートアップの成長という話にとどまらない。
AIで製造業を買い直す1000億ドル構想
Prometheusが向かっているのは、AIソフトウェアを工場に売るというビジネスではない。米紙ウォール・ストリート・ジャーナルが報じた構想は、それよりはるかに大きい。
既存製造企業の買収・再建構想
ベゾス氏が検討しているとされるのは、最大1000億ドル(約16兆円)規模の「製造業変革ファンド」だ。今回の調達額1.9兆円はその第一歩に過ぎず、構想全体の規模はさらに大きい。孫正義氏が2017年に立ち上げたソフトバンク・ビジョン・ファンドに匹敵する規模になる。ただし現時点でこのファンドは計画段階にあるとされており、法的な設立、出資者の構成、投資開始のタイムラインはいずれも明らかになっていない。WSJが報じた構想であり、実現には今後の資本集めと交渉が必要になる。
このファンドで新工場を建てるわけではない。すでに世界中に存在する、しかし老朽化した工場やサプライチェーン(原材料の調達から製品の出荷まで、製造に関わる一連の流れ)を丸ごと買い取り、PrometheusのAGEを導入して再構築する——「製造業を買い直す」という発想が核心にある。なお、ベゾス氏が創業した宇宙企業Blue Originとの製造分野における連携も示唆されているが、現時点で詳細は公表されていない。
そのために先陣を切ったのは、ベゾス氏自身だ。JPMorganやBlackRockが名乗りを上げる前に、氏はすでに62億ドルを先頭に立って投じていた。外部の大手投資家が続いたのは、そのベゾス氏の確信と行動が呼び水になったからだと見られている。
「難しすぎること」がモートになる
なぜこのビジネスは、真似されにくいのか。ベゾス氏の答えは逆説的だ。「難しすぎること」そのものが参入障壁になる——というのがその論理だ。
AGEを訓練するには、現実の製造現場から膨大な物理データを集める必要がある。工場の機械が何年もかけて積み上げてきたセンサーの記録、振動のデータ、過去の故障履歴。こういったデータはインターネット上に存在しない。現場に入り込み、地道に収集し、大量の計算資源を使って初めてAIを育てることができる。
「モート」とは何か
モートとは、もともと城を守る「堀」のことだ。ビジネスの世界では「競合他社が簡単に侵入できない優位性」を指す言葉として使われる。Prometheusの堀は、特許でも規模でもなく、「物理データを集め、物理AIを訓練できる」という圧倒的な難しさにある。これができる企業が世界に数えるほどしかないことが、参入障壁そのものになる。
100人が10年かけた製造工程を、10人が1年でやり切るAIが本当に実現するかどうか——それはまだ証明されていない。しかしベゾス氏は1兆円を自ら賭け、世界の金融機関がその判断を信じた。この構想が現実になれば、工場の姿は根本から変わる。飛行機のエンジンも、乗る車も、飲む薬も——私たちが手にするものの多くは、今とは違う速さとコストで生まれてくることになる。
