EUのiPhoneで、Appleの新しいSiriが使えない。いつ使えるようになるかも、今のところ誰にも分からない。
WWDC26で「無期限延期」を発表
2026年6月8日、Appleは年次開発者会議「WWDC26」でiOS 27の目玉機能として新世代の音声アシスタント「Siri AI」を発表した。Reuters・Bloombergなど複数のメディアが伝えたところによれば、GoogleのAI「Gemini」を基盤に据えており、従来のSiriとはまったく異なるものだ。アプリをまたいでタスクを自動実行したり、ユーザーの過去のメッセージや予定を踏まえて返答したりできる。
ところが同じ発表の場で、Appleはこう告げた。EU(欧州連合)域内のiPhoneとiPadへの提供は「現時点で目処が立っていない」と。Mac や Apple Vision Pro は対象外で、iPhone と iPad だけが取り残される。
影響を受けるのは約4億5000万人だ。EU域内でこの機能が使えないユーザーの数として、Reutersが報じた数字である。
2024年にもAppleはEU向けのAI機能提供を遅らせたことがある。あのときは「時期未定」——いずれ出すという前提が、言葉の裏にあった。今回の「無期限延期」は意味が違う。合意の見通しが立たない、という表明だ。
なぜEUだけ使えないのか。EU圏で施行中の「DMA(デジタル市場法)」——大手IT企業が市場を独占しないよう縛る法律——が、SiriがアクセスできるiPhoneの機能を他社のAIにも同じ条件で開放するよう求めており、Appleはその対応方法を欧州委員会と合意できていない。
発表当日、Appleの株価は約2%下落した。Reuters・Bloombergを含む複数の報道が伝えている。市場もこれを深刻に受け止めたということだ。
Appleの妥協案は2度、却下された
「無期限」になった理由は、交渉が決裂したからだ。Appleは時間を引き延ばしていたわけではない。2つの具体的な解決案を欧州委員会に提示し、どちらも正式に拒否されている。
「安全な仲介役」を設ける案
Appleが最初に示したのは「Trusted System Agent(信頼されたシステムエージェント)」と名付けられた仕組みだ。GoogleのAIでも他社のAIでも、iPhoneの機能にアクセスしたければAppleが設ける中継システムを通じて安全に使えるようにする——そういう提案だった。
EUが求めていたのは、もっと直接的なものだ。SiriがアクセスできるiPhoneの機能を、他社のAIにも即座に同じ条件で開放すること——仲介役を挟まず、対等に競える条件を作れということだ。
欧州委員会はこの案を退けた。「中継システムの管理者はAppleだ。どのAIにどこまでアクセスを許すかを、最終的にAppleが決める構造に変わりない」——公平な競争を作るどころか、Appleのコントロールを温存するものだという判断だった。
18ヶ月の移行猶予案
Appleは次の手を打った。「この仕組みを一夜で構築するのは無理だ。18ヶ月をかけて段階的に開放していく計画を認めてほしい」という時間的な譲歩案だった。
2026年6月9日、欧州委員会はこれも正式に却下した。理由は明快だった。「18ヶ月の間、競合他社のAIは不公平な立場に置かれ続ける。その状態自体がDMAの違反だ」。
ここで、双方の言い分が真っ向からぶつかる。
AppleでソフトウェアとAIを統括するクレイグ・フェデリギ上級副社長は、EUの要求についてこう述べた。「EUの求め通りにすれば、あらゆるAIシステムがユーザーの監視もなく自律的に動き回れる状態になる。自分のデータがどう使われているか、ユーザーには把握できなくなる」。
欧州委員会のトーマス・レニエ報道官はこう切り返した。「EU圏のiPhoneでSiri AIを提供しないと決めたのはAppleだ。DMAは新製品・新サービスの導入を禁止していない」。
Appleは「安全」を盾に立て、EUは「Appleの自己判断の結果だ」と責任を押し返す。どちらの言い分にも筋が通るからこそ、交渉は出口を失っている。
EUのiPhoneで使えなくなる機能
では、「使えない」とは具体的に何を指すのか。
カメラを向けるだけで、AIがその場で「これは何か」「どこに行けばいいか」「この植物は食べられるか」を答えてくれる——「拡張ビジュアルインテリジェンス」と呼ばれるこの機能は、EU圏のiPhoneでは動かない。過去のメッセージや予定を踏まえて会話できる専用のSiriアプリも使えない。文章を書くときに構成や言葉づかいを手伝う「作文ツール」も、カメラアプリ内でSiriに直接話しかける機能も、同様だ。
同じiPhoneを使いながら、住む場所が違うだけでこれだけの差がつく。
Apple WatchはiPhoneと連動して動く製品だ。EUのiPhoneにSiri AIが入らない以上、ペアリングしたApple WatchのSiri AI機能も連鎖的に制限される。本体の問題が、手首の端末にまで波及する。
一方で、MacとApple Vision Proは別の話だ。macOS 27とvisionOS 27は、EU域内でもSiri AIを含む新機能が予定通り使える。理由はシンプルで、DMAのゲートキーパー指定——規制の対象——はiOSとiPadOSに絞られており、MacやVision ProのOSはその外にある。同じAppleの製品でも、法律が引いた線の内側にいるかどうかで扱いがまるで違う。
そしてこれは欧州だけの話ではない。中国でも規制対応が完了するまで同様の延期が決まっており、AppleのAI戦略は世界の二大市場で足止めされている。米国では使えて、EU・中国では使えない——AppleのAI機能は、地図の上でばらばらに分断されている。
この先、解決はあるのか
似たような状況は、2年前にも起きている。
2024年、AppleはEU向けの「Apple Intelligence」——AIを活用した各種機能群——の提供を、DMAへの対応を理由に延期した。結果的に約1年後、2025年3月のiOS 18.4でEU導入が実現した。「また同じパターンだろう」という見方は、そこから来る。
ただし、今回は構造が違う。
2024年の遅延は「どうやってEUに出すか」の問題だった。Appleが技術的な調整を積み重ねれば前進できた。今回は「Appleが安全だと主張する仕組みを、EUが認めるかどうか」という価値観の問いに変わっている。
Appleが次に取れる手段として考えられるのは、「プライベートクラウドコンピューティング(PCC)」の技術的な説明をEUに続けることだ。PCCとは、SiriがユーザーのデータをAppleのサーバーで処理する際に、Apple社内の人間でさえ内容を見られないようにする仕組みだ。Appleはこれを「安全性の証拠」として規制当局に示してきた。
しかしEUは今、このPCC自体も調べ始めている。Appleが安全の根拠として差し出してきた仕組みが、実は他社のAIをiPhoneから締め出す壁になっていないか——という疑いだ。
欧州の消費者団体BEUC(欧州消費者機構)は、第三者として明確な言葉を使っている。「Appleは規制を、機能の提供を遅らせるための言い訳に使っている」。
双方の声明は、解決の見通しを示さない。
フェデリギ氏は、EU向けのタイムラインについて「示せる状況にない」と述べた。欧州委員会は「Appleが解決策を作れなかっただけだ」と言い切った。「いつ解決するか」への答えが、どちらからも出てこない。
数字として見れば、Appleにとっての重さは測れる。複数のアナリストの推計によれば、EUはAppleの全世界売上の26〜27%を占める市場だ。Siri AI不在がEUでのiPhoneの競争力を削ぐと指摘され、市場調査会社Canalysは、AI機能が普及する米国でのシェア(57〜59%)に対し、EU圏では横ばいか微減になると予測している。
だが数字の問題より根深いのは、この対立の構造そのものだ。
「ユーザーのデータを守る」というAppleの立場と、「同じ土俵で競わせる」というEUの要求は、どちらも正当性を持つ。AIが検索の補助だった時代には、このぶつかり方はそれほど激しくなかった。AIが個人の記憶を持ち、アプリを跨いで自律的に動くようになるほど——守るべきデータの量も、競争から排除されるリスクも、どちらも大きくなっていく。
今回の決裂が一時的なトラブルなのか、それとも技術が進化するほど繰り返される衝突の始まりなのか。その答えは、今のところ誰も持っていない。
