役所が扱う住民の個人情報は、絶対に外に出してはならない。その一言が、何年もの間、行政のAI導入を阻んできた。その壁を突き崩す実験が、今年8月に大阪府で始まる。
大阪府で8月から行政AIの実証が始まる
2026年6月22日、NTT西日本グループのNTTビジネスソリューションズが計画の全容を発表した。NTTが開発した国産AI「tsuzumi 2」を使い、AIが職員の代わりに情報を調べて答える仕組みを、実際の行政業務で試す。大阪府を中心に、Google CloudやMicrosoftを含む35以上の企業・団体が「大阪府行政AIエージェントコンソーシアム」(協議体)を組んで進める。同コンソーシアムによると、行政の複数業務を横断したこうした複合的な実証は全国で初めてとなる。
試みる場面は複数ある。災害が起きたとき、被害状況の集計や避難所の情報整理をAIが自動でまとめ、職員が何を優先すべきか判断するのを助ける。住民からの問い合わせにはチャット形式でAIが答え、日本語が不自由な外国人住民には母国語で医療機関を案内する。学校の教職員が作る公式文書の文章づくりを手伝う機能も、検証の対象に入っている。
官公庁のAI活用はここ数年で急速に広がっており、大阪の実証は全国約1700の自治体に向けた「型」を作ろうとしている。では、なぜこのような実証がこれまで誰にもできなかったのか。
役所がAIを使えなかった「データの壁」
あなたがスマートフォンでChatGPTに質問を打ち込むと、その文章はインターネットを通じてアメリカのサーバーに送られ、そこで処理されて答えが返ってくる。一般的なAIはすべてこの仕組みで動いている。
役所にはそれができない。住民の名前、住所、税の納付状況、子育てや介護の記録——これらは法律によって厳重に保護されており、外部のサーバーに送ること自体が許されていない。非公開の業務マニュアルや条例の運用基準も同じだ。「AIを使いたくても、データを外に出せない」という矛盾が、行政のAI活用を長年縛ってきた。
総務省が2025年に行った調査では、地方自治体の74%がなんらかのAIを業務に使い始めている。都道府県と政令指定都市に限れば、導入率は100%だ。しかし実態を見ると、活用は文書の下書きや会議録の文字起こしといった、個人情報に触れない周辺業務にとどまってきた。住民の相談に答える、申請書類の内容を確認する——本来AIが最も力を発揮できる業務は、まさにデータが壁になる場所にある。
今回の実証が試みるのは、この構造を根本から変えることだ。AIを海外のサーバーではなく、役所の建物の中のコンピューターで動かす。データは一切外に出ない。行政が何年もぶつかり続けてきた壁に、ようやく正面から向き合う実験が始まる。
デジタル庁が選んだ国産AI「tsuzumi 2」
tsuzumi 2が「役所の中に置けるAI」である理由は、その物理的な大きさにある。
一般的な生成AIは、巨大なデータセンターにある膨大なコンピューター群で動いている。tsuzumi 2に必要な設備はずっと少ない。高性能の計算装置1基と、それを収めるサーバーラック1枚。電話ボックスほどの大きさだ。役所が自前のコンピューター室に設置して、自分たちだけで管理できる。住民のデータは建物の外に出ない。「小さいから安全」——シンプルな答えがここにある。
NTTが開発し、2025年10月にNTTデータが商用提供を始めたこのAIは、日本語の法律や行政用語の理解に特化して設計されている。その性能を、国が直接試した。デジタル庁は、省庁職員が使う生成AI環境に組み込むAIを選ぶにあたり、複数の候補を対象に300問の審査を実施した。tsuzumi 2はそのすべてをクリアし、2026年3月に試用AIの一つとして選ばれた。
同年5月には、行政資料に多い帳票や図表を画像として読み取る機能も加わり、実務での守備範囲はさらに広がっている。
大阪の実証が全国の型になる
コンソーシアムの参加企業名を見ると、この実験の射程がわかる。NVIDIAやSalesforceといった世界トップのテック企業に加え、日立製作所や三井住友銀行まで、35社が国産AI実証のために集まっている。自治体の業務改善プロジェクトに、これほどの顔ぶれが揃うことは異例だ。「日本の行政AIの標準をどこが作るか」という、産業としての競争がここから始まっている。
35社を集めた理由には、意図がある。特定の企業一社にAIの仕組みを握られると、その会社との取引をやめられなくなる。自治体の予算は限られており、独占的な契約は長期的なコスト増につながる。多様な企業を巻き込むことで、どの自治体もどの企業からでも導入できる「開かれた標準」を作ろうとしている。
大阪府はこの実証を、大阪だけで終わらせるつもりはない。2026年度末(2027年3月)までに、今回確立した手法を「ガイドライン」としてまとめ、全国1700以上の市区町村に公開する計画だ。他の自治体が「ほぼそのまま使えるモデル」を手に入れられる状態を作る——それが今回の実証が背負うもう一つの使命だ。
政府の時間軸で見ると、大阪の実証は大きな流れの中の一歩だ。2025年12月に閣議決定された「人工知能基本計画」は、2030年頃を目標に「AIネイティブ行政」——あらゆる行政サービスにAIが組み込まれた状態——への刷新を掲げている。大阪の実験は、その道筋上の最初の大きな一歩に位置づけられる。
ただし、「型が通用するか」はこれから試される。今回の実証が何をもって成功とするか——処理した件数か、職員の作業時間の削減幅か、住民への対応精度か——具体的な評価基準は現時点で公表されていない。
導入コストの問題も残る。サーバーラック1枚で動く設備を自前で抱える費用が、財政力の限られた小規模自治体にとって現実的かどうかは、実証の結果が出た段階で改めて問われる。全国1700の自治体は、規模も財政力も抱える課題もバラバラだ。人口数百人の村と、100万人を超える政令市では、AIが解くべき問題も使える予算もまったく異なる。
35社という大所帯が本当に足並みをそろえて動けるのかも未知数だ。大阪の実証が終わった後にこそ、本当の試練が始まる。
