国の予算には毎年「ここまで」という上限がある。各省庁はその枠の中で予算を奪い合い、足りなければ年度の途中で「追加予算」を組んでもらう。戦後ずっと続いてきたそのやり方を、高市首相がAI・半導体だけに限って変えようとしている。
予算の「上限」をなくしたのは異例
予算の上限は「シーリング」と呼ばれる。会社の各部署に設けられた経費の上限枠のようなものだ。各省庁は毎年秋、その枠内で来年度の「概算要求」——いくら使いたいかの申請——を財務省に出す。枠を超えた要求は原則、通らない。
高市首相が今回創設する「『強く豊かな日本』投資枠」は、このシーリングを設けない。AI・半導体については「いくらでも要求していい」というルールに変わる。2027年度予算から導入し、複数年度にわたる計画を前提に予算を確保できる仕組みにする。
これまでの半導体・AI支援はどうやって出ていたか。TSMC熊本工場の誘致への補助金も、国産半導体の育成に充てた公的資金も、「補正予算」と呼ばれる追加予算で賄ってきた。補正予算は年度の途中で組む緊急措置で、年によって金額が変わる。企業には常に「来年いくら出るか分からない」という不確実さがつきまとっていた。
それが「当初予算」——年度の最初から組み込まれる本予算——に移行する。毎年まとまった公的資金が確実に出ると分かって初めて、企業は数千億円の工場建設や長期開発に踏み切れる。場当たり的な追加支援から、計画的な支援へ。制度として変わることが、企業を動かす。
投資が実際に実を結んだ証拠もある。TSMC熊本工場(JASM)は2024年12月に量産を開始し、1年強で2026年1〜3月期に約47億円の最終黒字を達成した。
それでも、なぜ今これほど急ぐのか。世界の半導体市場は2026年に前年比89.9%増、約240兆円規模に膨らむと半導体業界の統計機関WSTS(World Semiconductor Trade Statistics)が予測する——ほぼ2倍の成長だ。年度ごとに予算を申請し直す制度のままでは間に合わない。ルール自体を変えなければならないという判断が、「上限なし」という今回の措置につながった。
17分野・官民50兆円の全体像
「上限なし」で動く資金は、どれほどの規模になるのか。
AI・半導体の分野だけで、政府は2030年度までの7年間に10兆円以上の公的資金を投じる計画だ。日本の年間税収(約70兆円)のおよそ7分の1に相当する。民間企業の投資を合わせると10年間で50兆円超——トヨタ自動車の年間売上に匹敵する規模が、1つの産業分野に集中する。そこから生まれる経済波及効果は約160兆円と試算されている。
高市政権の計画は、AI・半導体だけを対象にしているわけではない。量子技術、宇宙、核融合、ゲーム・アニメ、次世代船舶、ロボットにAIを組み合わせた「フィジカルAI」など計17の分野を「戦略的に育てる分野」として束ね、2040年度までに官民合わせて370兆円を投じるのが「日本成長戦略」の全体像だ。370兆円は日本のGDPのほぼ6割に相当する。ただし、今回の「上限なし」予算枠は、この中でもAI・半導体を主軸としている。
なかで具体的な目標が立っているのが「フィジカルAI」だ。工場のロボットや建設機械にAIを組み込み、人間の代わりに複雑な作業を担わせる技術のことを指す。政府は2040年度までに10.5兆円の公的資金を投入し、世界市場の3割を獲得する目標を掲げている。ものづくりの現場を多く抱える日本が比較的優位に立てる分野とされる。
市場の反応は速かった。戦略の全容が伝わると、半導体関連の株価は軒並み急騰した。「今度こそ本気だ」と投資家が受け取ったことが、株価の動きに表れている。
では「本気」の裏付けは、現場でどこまで形になっているのか。
半導体への投資、ここまで来た
TSMC熊本——黒字工場が次へ動く
第1工場が黒字を出したことを受けて、次の投資が動き出している。第2工場への投資は総額約2.1兆円で、政府の補助額は最大7,320億円。2029年前半の量産開始を目指す。さらに約2.5兆円規模の第3工場の建設も、最終調整に入ったと報じられている。
ラピダス——国産2ナノへの挑戦
ラピダス(Rapidus)は2022年に政府主導で設立された国産半導体の新興メーカーだ。今年6月にも政府から1,500億円の追加出資を受け、公的支援の累計は約2.9兆円に達した。NTTやソフトバンクを含む民間32社から1,676億円の出資も確保し、開発体制は現在1,000人規模。北海道千歳市の工場で、量産に向けた実機の開発が動いている。
目指すのは2027年度後半の「2ナノ半導体」量産だ。2ナノとは半導体の回路の細かさを示す単位で、数字が小さいほど高性能かつ省電力になる。現在このクラスを量産できる企業は世界に数社しかない。その技術を日本でもつくれるようにするのが、ラピダスの目標だ。
2つのプロジェクトはいずれも、完成まで数年を要する巨大事業だ。それを下支えするために、今回さらにもう一つ、制度が変わる。
基金「3年制約」の撤廃
産業振興のために政府が積み立てる「基金」には、これまで見えにくい制約があった。資金の拠出期間は「原則3年程度」と定められていたのだ。10年先まで続く設備投資の計画を立てようとしても、3年で支援が途切れる可能性があれば、企業は動けない。
今回の制度改正はこの制約も取り払う。拠出期間を長期化し、「上限なし」の予算枠と組み合わせることで、「いくらでも」「何年でも」が制度として初めて保証される。金額だけでなく、何年先まで出し続けるかの約束——それが単なる予算増額ではなく「ルール変更」と呼ぶべき理由だ。
変化の背景には、補正予算への依存という構造問題がある。2025年度の補正予算は18.3兆円規模にまで膨らんでいた。年間税収の約4分の1に相当し、半導体投資の大半をこの「緊急措置」の枠に依存してきたのが、これまでの実態だ。
この転換を、政府はAI・半導体だけでなく戦略17分野すべてに広げようとしている。恒常的な政策を最初から本予算に組み込む——補正予算に頼り続けてきた財政運営の組み立て方が、根本から変わろうとしている。
ルールは変わった。残る問いは、民間が動くかどうかだ。ラピダスの2ナノ量産が計画通りに実現するか。官民合計50兆円という目標が本当に動き出すか。制度は整いつつある。問いはまだ、答えが出ていない。
