2026年6月2日、トランプ大統領は先端AIに関する新たな大統領令——大統領が議会を通さず出せる法的拘束力を持つ政策命令——に署名した。だが2週間前の5月21日、同じはずだった署名式がホワイトハウスによって突然キャンセルされていた。最終的に式は非公開で行われた。
署名直前、90日審査案が消えた
キャンセルの原因は、草案に含まれていたある条項だった。「新しいAIを一般公開する90日前に、企業は政府にモデルを提出し、安全性を証明しなければならない」——そう義務付ける仕組みが当初の案に盛り込まれていた。AI開発を手がける企業にとって、これは製品を世に出す前に3カ月間足止めされることを意味する。
最終的に署名された大統領令から、90日の強制審査は消えていた。
この大統領令が持つ重みは、政権発足初日に遡る。トランプ大統領は就任した2025年1月20日、バイデン前大統領がAI規制の柱として打ち出した大統領令(EO 14110)を無効にした。AI企業に安全基準の報告を義務付けるそのルールを、政権は「イノベーションの妨げ」として白紙にしたのだ。今回の署名は、それ以来最大の政策転換となる。
なぜ2週間で草案の核心部分が書き換えられたのか。その舞台裏には、3本の電話があった。
マスクらが政権を動かした
3人のロビー活動
5月21日の署名式がキャンセルされる数日前、3人がそれぞれトランプ氏に直接電話をかけた。イーロン・マスク、マーク・ザッカーバーグ、そしてトランプ政権でAI政策の調整役を務めてきたデビッド・サックスだ。
マスクが率いるxAIは2026年2月、SpaceXのAI部門と統合している。ザッカーバーグはFacebook・InstagramのMetaを率いるCEOだ。サックスは政権内の「AI担当特使」として内側から声を上げた立場だった。3者の役回りは違うが、主張は重なっていた。
「90日ルールはAI開発のブレーキになるだけだ。中国に追い抜かれる」
電話だけではなかった。シリコンバレーを代表する投資会社アンドリーセン・ホロウィッツ(通称a16z)など複数の投資会社のロビイスト——企業の代わりに政府へ働きかけを行う代理人——が、政府内で組織的に反対運動を展開した。彼らの表現はより直接的だった。「90日審査は事実上のライセンス制だ」——政府が首を縦に振らなければAIを世に出せない仕組みだ、という批判である。
「中国が勝つ」が決め手になった
複数のメディアは、トランプ氏を最終的に動かしたのは「中国が勝つぞ」という論法だったと伝えている。
対中強硬路線はトランプ政権を貫く軸の一つだ。「規制を強めれば中国が先に進む」という図式は、AI政策でも同じように機能した。そしてこの論法に説得力を与えたのが、業界側の財務的な事情だった。OpenAI、Anthropic、xAIといった主要AI企業はいずれも株式上場——企業が証券取引所に上場して広く投資家から資金を集めること——を控えていた。規制の輪郭が定まらないままでは投資家に先行きを示せない。Anthropicは2026年6月1日、証券取引委員会(SEC)への上場申請を非公開で提出している。「公開90日前に政府の審査を通れ」という条件が残れば、上場のスケジュール自体が狂う。
シリコンバレーの大手が「中国に負ける」と訴え、投資会社が「これは許可制だ」と批判し、上場を控えた企業が規制の不確実性に直面していた——その利害が重なった先に、90日ルールの消去があった。
強制審査が消え、30日の自主共有になった
最終的に何が変わったのか。2点に絞れる。
審査は「義務」から「任意」になった。期間は「90日」から「30日」に縮まった。署名された大統領令の本文には、さらに踏み込んだ表現が入った——「政府が強制的なライセンス制・事前審査・許可要件を設けることを禁ずる」。企業がAIを世に出す前に政府の承認を求めるような仕組みを、連邦政府が今後作ることを原則として禁じる文言だ。
30日前の自主共有とは
残った唯一の枠組みが「30日前の自主共有」だ。企業が新しいAIモデルを一般公開する30日前に、政府へ情報を提供できる——「できる」であって「しなければならない」ではない。
何を提供するかも、そもそも提供するかどうかも、企業が決める。拒否しても罰則はない。
前政権の報告義務が消えた
変化はもう一つある。バイデン前大統領は「国防生産法」——大統領が有事に企業へ物資や情報の提供を命じられる法律——を根拠に、大規模なAI開発に使うコンピューター資源の使用状況を政府に報告させていた。何台のサーバーを何時間動かしてAIを訓練しているか、という情報だ。新しい大統領令はこの義務を事実上無効にした。
外すだけでなく、動かす
大統領令はルールを撤廃しただけではない。連邦機関が調達するシステムにAIを積極的に組み込む方針を明記し、国防・医療・インフラ分野での政府調達をAI対応へ優先的に移行させる指示も盛り込まれた。商務省のもとで省庁横断のAI調整会議を設け、AI競争力に関する半年ごとの報告を大統領に提出することも義務付けた。規制を外した後に政府が向かう先は、民間への競争促進と連邦自身のAI活用の加速——その両輪だ。
ただ、「ゼロ規制」にはならなかった。その理由はAIそのものにある。
Anthropicが2026年4月に公表した安全性評価レポートが、政府内の議論を変えた。最新モデルがコンピューターの未公開の弱点——まだ修正プログラムが存在しないセキュリティ上の欠陥——を自律的に発見し、悪用する能力を持つことが確認された。銀行や病院のシステムに潜む穴をAIが自力で見つけ出せる、という意味だ。
この能力の報告を受けた後、政府内に「完全に手放すのは怖い」という認識が広がった。「ゼロにしよう」という主張は最後まで支持を集めなかった。30日の任意が折衷案として残ったのは、AIの能力そのものが政策を引き留めた結果だ。
では、シリコンバレーは本当に自由になったのか。
規制緩和の裏で、軍と財務省が動く
署名の前日、2026年6月1日。スコット・ベセント財務長官、ピート・ヘグセス国防長官、そしてAI担当特使のデビッド・サックスの3人がホワイトハウスに集まり、トランプ氏に最終案を提示した。
合意の骨子はこうだった。企業への強制審査は消す。ただし、政府側の関与は別の形で残す。
軍が60日でAIの攻撃能力を測る
国防総省(ペンタゴン)は「安全審査」という名目を手放した。代わりに向かったのは、より実務的な問いだ。「そのAIは、サイバー攻撃にどれほど使えるか」。
大統領令の署名から60日以内に、国防総省は最先端AIモデルの攻撃能力を独自に評価する体制を整える。評価の起点は企業が提出したデータではなく、国防総省が自ら測定する。
軍の動きはすでに始まっていた。2026年5月、国防総省は主要テック企業と提携し、機密軍事ネットワーク上への商用AIシステムの配備を発表した。NSA(国家安全保障局、アメリカの諜報・情報収集機関)とサイバー軍による合同タスクフォースが、AIを国防業務に組み込む作業を進めている。
財務省が情報拠点を立ち上げる
財務省は、30日の自主共有期間を別の意味で定義し直した。「企業への猶予」ではなく、「政府が防衛体制を整えるための準備期間」だ。
銀行や病院のシステムに潜む脆弱性をAIが発見した場合、30日以内にその情報を政府と共有するよう企業に求める。企業から見れば「任意の協力」だが、財務省から見れば重要インフラを守るための情報収集期間になる。
この枠組みを支える組織として「政府AIサイバーセキュリティ・クリアリングハウス」の設立が大統領令に盛り込まれた。病院や電力網、金融システムなど社会の基盤となるインフラの防衛に、AIが発見した脆弱性情報を集約して活用する情報拠点だ。
NSAが独自の評価基準を持つ
最も注目すべきは、NSAに与えられた権限だ。大統領令に関連する政策文書によれば、NSAは秘密の評価基準を作る権限を持つ。企業が情報共有を拒否しても、NSAが独自にAIモデルを指定し、その能力を評価できる仕組みだ。
自主共有が「任意」であっても、NSAが企業の許可なく独自評価できるなら、監視そのものは消えていない。
表向きは「企業を自由にした」大統領令だ。90日の強制審査は消え、強制的なライセンス制の禁止まで明記された。だが同じ書類の中で、国防総省は60日以内にAIの攻撃能力評価体制を整え、財務省は新組織を立ち上げ、NSAは秘密の評価基準を手にした。「規制緩和」と「監視強化」が、同じ大統領令に同居している。
30日の自主共有に実効性があるかどうかは、これから問われる。企業が共有を拒否したとき、NSAが独自評価に動くとき——この仕組みが何を意味するのかが明らかになるのは、まだ先のことだ。
