2026年4月27日、Facebookを運営するアメリカのIT大手Metaが、約3,100億円を出して買収しようとしていたAIスタートアップを、中国政府が「売るな」と差し止めた。代金はすでに支払い済みだったにもかかわらず、「数週間以内に買収前の状態に戻せ」という要求まで突きつけられた。
Metaが買おうとしていたのは「Manus(マヌス)」という企業だ。AIが人間の代わりにパソコンを操作し、調べもの・資料作成・データ分析といった複雑な作業をこなすソフトウェアを開発している。2025年春のリリースから8カ月で、世界中の企業や個人がこぞって使い始めた。Metaにとって、過去3番目の規模に当たる買収案件だった。
差し止めを命じたのは中国国家発展改革委員会(NDRC)——中国の経済・産業政策を管轄する政府機関だ。AI分野で外資による買収をこの形で差し止めた国内初の事例とされる。
さらに異例だったのは、命令が出る前に動きがあったことだ。Manusの共同創業者で最高経営責任者(CEO)の肖弘(シャオ・ホン)氏ら2名は、禁止命令が正式に出るより前の2026年3月、中国当局に北京へ呼び出され、審査が終わるまで国外に出ることを禁じられていた。企業の経営者を事前に足止めするという、異例の強さの措置だった。
Manusは買収交渉にあたり、本社をシンガポールへ移転し、「中国企業ではなくシンガポール企業として売る」という形を整えていた。にもかかわらず、中国当局はこれを「実質的な中国企業」と判断した。海外移転で規制を逃れるという、IT業界で長く使われてきた手法が、ここでは通じなかった。
シンガポール移転でも無効とされた理由
技術DNAという論理
Manusは2025年末、本社をシンガポールへ移した。登記上の国籍を変え、「うちはもうシンガポール企業だ」という形を整えた。Metaも買収発表の際、「中国の資本が利益を得続ける構造はない」と説明していた。
それでも中国当局は動じなかった。
当局の論理はシンプルだ。「会社がどこにあるかではなく、技術がどこで生まれたかが問題だ」——。パスポートを取り直しても、顔が変わるわけではない。それと同じ話だと当局は判断した。
この差し止めの法的根拠になっているのが、2020年に施行された中国の輸出管制法だ。輸出規制とは、国の外に持ち出してはいけない技術のリスト——従来は兵器や半導体が中心だったが、2025年以降はAIも対象に加わるよう解釈が広がってきた。この枠組みの下で、Manusの買収は「外国への技術流出」と判定された。
業界の専門家が指摘する「実質的な中国企業」の判断軸は、4つある。
- 創業者が中国国籍を持っている
- 中国の国有資本(政府系のお金)を受け取ったことがある
- コード(ソフトウェアの設計図)が中国国内で書かれた
- 中国のデータを使って開発されている
Manusはこれらの条件を複数満たしていた。創業者は中国国籍で、技術の核心は中国で書かれたコードだ。本社の住所をどこに変えようと、その事実は消えない。
今回の命令が従来の規制と異なるのは、「技術を返せ」と求めた点だ。代金を受け取るな、ではない。いったん成立した取引をなかったことにし、技術の帰属を元に戻せという命令だ。石油の採掘権や軍事技術には、国家が「国の資産」として管理する仕組みが長くある。今回、中国はAIをその列に加えた。
規制は他の中国AI企業にも波及
Moonshot AIらへの直接指導
この基準はManus1社の問題では終わらない。当局はチャットAI「Kimi」を開発するMoonshot AI(月之暗面)や、元マイクロソフトの研究者が設立したStepFunといった有力スタートアップに直接指導を行ったと複数のメディアが報じている。内容は「海外移転や米国資本の受け入れを行う前に当局へ報告せよ」という趣旨だ。
AI人材の国外流出を防ぐ措置も始まっている。日本・米国・シンガポールへの拠点分散を進めていたMiroMind(ミロ・マインド)は、当局から「人材を海外へ派遣するな」と直接指示を受けたと伝えられる。技術だけでなく、その技術を作る人間も中国に留め置く——Manusで示した論理が、他の企業にも適用され始めている。
中国AIへの米系VC投資を事実上封じる
中国のAIスタートアップはこれまで、国内で技術を育て、海外の資金を取り込み、グローバル市場へ出ていくという成長モデルを描いてきた。Manusはまさにそのモデルを体現した会社だった。
だがいま、そのモデルには穴が開いた。外国のVC(ベンチャーキャピタル)——新興企業に資金を出し、会社が成長したところで株を売って利益を回収するファンド——が、株を売る段階で中国当局に取引を止められる可能性が生まれたからだ。Manusの投資家が今まさに向き合っている現実だ。
企業が海外に本社を移しても、中国当局が「実質的な中国企業」と判断すれば、買収も株式売却も止められうる。中国発のAIに投資すること自体のリスクが、今回の一件で変わった。
この一件が残したもの
技術を返すことが現実にどこまで可能かは、まだ誰にも分からない。ソフトウェアは物体ではなく、コピーを消しても元の知識は残る。それでも当局が「返せ」と言える立場を確立したこと——中国がAIを石油や軍事技術と同列に扱い始めた最初の実例が、この事案だ。
「中国人が書いたコードが含まれているか」「中国のデータで学習したAIか」——これまで取引前の確認事項としてあまり重視されてこなかった問いが、今後は当局の介入を招く可能性のある判断軸として浮上した。外国の投資家にとっても、中国発AIを買収したい大手ITにとっても、中国人エンジニアを採用してAIを開発している世界中の会社にとっても、その線引きがどこまで引かれるかは、まだ定まっていない。
