輸出規制とは、売ることを禁じる力だ。禁じる側が優位に立ち、禁じられた側が手を尽くして回避策を探す——それが通常の構図だ。だが2026年5月、その前提が静かに崩れた。
輸出許可が下りたのに、出荷はゼロ
エヌビディアの「H200」は、AIを動かすための高性能な計算装置だ。ChatGPTのような生成AIの開発・運用には大量のH200が必要で、1個あたりの価格は数百万円に上る。
米国政府は2025年末から2026年1月にかけて、このH200を中国企業に売ってよいと判断した。アリババ、テンセント、バイトダンスなど大手テック10社に対し、合計75万個の購入枠(ライセンス)が発行された。
2026年5月、米商務長官ハワード・ルトニックは議会での証言で「H200の中国向け出荷実績はゼロだ」と述べた。75万個の枠に対して、届いたのは1個もない。
エヌビディアの中国市場での売上は、ピーク時には全体の26%を占めていた。今はCEO自身が「実質ゼロに落ちた」と認めている。許可は出た。だが条件を見れば、なぜ誰も買わないかが分かる。
米国が突きつけた異例の条件
ロイター通信などが報じた内容によると、輸出許可を管轄する米商務省産業安全保障局(BIS)は、許可証に3つの条件を盛り込んだという。
売上の25%を米財務省に納付
H200の中国向け売上のうち、4分の1を米国政府に納める義務だとされる。レベニューシェア(収益分配)と呼ばれる仕組みで、エヌビディアが中国で100億円を稼げば25億円が米国に入る計算になる。報道によれば、半導体の輸出取引でこれほどの割合が課された前例はないという。
軍事転用防止の第三者検査が義務
チップが軍の研究や兵器開発に流れていないか確かめるため、米国内の第三者機関による定期検査を義務化したとされる。中国企業が何のためにチップを使っているかを、米国側の検査機関が直接確認できる仕組みだ。
さらに条件はもう一つあったとされる。米国側がチップを遠隔から停止できる技術的な仕組みの組み込みだ。
車を買ったのに、ディーラーがいつでもエンジンを止められるリモコンを手元に持っている。それと同じ状態で購入を決める企業がどれほどあるか。
中国のサイバーセキュリティ当局(CAC)はこの仕組みを「バックドア(外部からシステムに秘密裏に侵入できる隠し扉)だ」と断じ、詳細な技術資料の提出を要求した。CACが承認しない限り、中国企業は実質的にこのチップを導入できない。条件の重さとCACの不承認が重なり、出荷はゼロにとどまった。
売上の4分の1を渡し、外部の目を受け入れ、遠隔停止の権限を与える。それが「解禁」の実態だった。
中国が「買わない」理由
条件が重すぎるから買わない——それは確かだ。だがそれだけではない。中国側には、そもそもH200を急いで買う必要がない理由が、別に三つある。
一つ目は、代替品がある。中国政府は2025年以降、国内のテック企業に対してファーウェイ(Huawei)製のAIチップを優先的に使うよう、事実上の指示を出している。ファーウェイは独自開発したAIチップの供給を拡大し、2025年に約81万個を出荷した。中国国内の市場シェアは約50%に達し、大手AI企業の中にはNVIDIA製品からファーウェイ製への乗り換えを表明するところも出てきた。
二つ目は、ソフトウェアで補える。アリババが公表した技術評価によると、同社が開発した独自のソフトウェアシステムを使うことで、本来1192個必要だったGPUの仕事を213個でこなせるようになったという。チップが手に入りにくいなら、ソフトウェアの工夫で1個あたりの仕事量を増やす——その方向に中国のAI開発は舵を切っている。
欲しいのはチップではなく製造装置
三つ目が、最も根本的な理由だ。
中国が本当に欲しいのは、H200のような完成品のチップではない。最先端のチップを自分たちで「作れるようになること」だ。半導体の製造には、チップそのものではなく、回路を極めて細かく焼き付けるための専用機械——製造装置が必要になる。この分野で30年以上をかけて独自技術を積み上げてきたのが、オランダのASML(エーエスエムエル)だ。光の波長を極限まで短くして回路を焼き付けるこの技術は、他のどの企業も追いついておらず、最先端の装置はASMLがほぼ独占している。米国はASMLに対して中国への輸出を制限するよう圧力をかけており、中国は先端装置の入手に苦労している状況だ。
その状況で、性能を制限された型落ちのチップを、売上の4分の1を渡し遠隔停止の権限まで与えて買う理由はない。自分の工場を持ちたい国に「古い型の製品を、いつでも止められる条件で売ってやる」と言っているに等しい取引だ。
「待つ」ことが最強の交渉カードになる
こうした構造の中で、中国が選んだのは「今は買わない」という戦略だ。
2025年、中国国内で出荷されたAIチップのうち、国産品の割合は41%と過去最高を記録した。このままいけば、数年後には米国のチップがなくても回せる市場になるという試算もある。時間が経つほど、中国の国産化は進む。時間が経つほど、米国がH200という取引材料を使える期間は縮まる。「今は要らない」と言い続けることは、単なる意地ではない。それ自体が、相手を揺さぶる外交の手段になっている。
AI半導体が外交資産になった
エヌビディアのCEOが大統領専用機に乗った——その光景は、何かの変化の象徴だった。エンジニアが設計した半導体が、外交官が扱う交渉材料と同じテーブルに並べられた瞬間だ。
米国が開放したのはH200だけだ。次世代チップの「Blackwell(ブラックウェル)」や、さらにその先の「Rubin(ルービン)」は、引き続き中国への輸出が禁止されている。古い世代は売る、新しい世代は売らない——この使い分けは、半導体を在庫品ではなく外交の切り札として扱う姿勢を示している。
そして米国が見返りに求めたのは、チップとはまったく異なる領域のものだった。
一つは、レアアース(希土類とも呼ばれる希少金属の総称)だ。電池やモーター、そしてAIの学習装置の製造に欠かせない素材で、中国は世界の産出量の6割以上を握る。米国はH200の解禁と引き換えに、中国がこのレアアースの輸出規制を緩和するよう要求した。もう一つは、麻薬問題だ。米国で年間数万人の死者を出している合成麻薬フェンタニルは、中国製の原材料から合成されるケースが多く、長年の懸案になってきた。チップ外交の交渉テーブルに、この問題への協力も乗せられた。
チップ、レアアース、麻薬対策——本来まったく別の問題が、一つの取引の中に収まっている。石油が1970年代の外交を動かしたように、半導体がいま、国家間の取引を動かす資産になった。
2026年5月の米中首脳会談では、AIのリスク管理を議論する共同チャンネルの設置が合意された。両国が発表した共同声明によると、対象はテロ組織などの非国家主体によるAI悪用に限定されており、軍事利用は議題から除外されている。AI外交が始まった、というより、最も核心的な部分を避けながらの対話が始まった、という方が正確だ。
2030年、中国のAIチップ市場は670億ドルに成長し、86%が国産で賄われるという試算がある。その時、「売ってやる・売らない」というカードは米国の手から消えているかもしれない。あるいは、最先端チップの技術差が再び開き、米国が主導権を取り戻しているかもしれない。
どちらになるかは、いまのところ誰にも分からない。
