団塊世代の熟練工が工場を去っている。「この振動パターンは要注意だ」「このエラーコードは放置していい」——長年の経験で体に刻まれた判断は、退職とともに消える。マニュアルには書けない。後輩には伝えきれない。
富士通、製造業特化AIを本格展開
現場保全を変えるKozuchi
富士通が2026年1月26日に発表したのは、工場専用に作られたAIだ。「Fujitsu Kozuchi Enterprise AI Factory」——同社が製造現場向けに整備したAI群の総称で、設備の点検記録や障害ログを読み解き、異常の原因を自動で突き止める機能を中核に据える。
工場の記録には「現場の方言」がある。略語、独自の書き方、書き手ごとのゆれ——「FCV異常→Pr低下確認→CLN実施」といった記述は、その現場で長年働いた人間にしか文脈が読めない。同じ部品が「モーターA」「MA」「駆動部1号」と三通りに書かれることも珍しくない。ChatGPTのような汎用AIは、その辞書を持っていない。
この「方言」を事前に学ばせた専用モデルで、Kozuchiは工場の設備ログ12万字分を10分以内で解析し、80%を超える精度で異常の原因を特定した。
富山の精密機械メーカー・高岡精機での実証では、熟練者が10時間かけて手作業で行っていた8時間分の映像データの解析をAIが自動化した。作業員の行動——マルチカッター周辺の作業か、PC操作か——を手動とほぼ同等の精度で分類してみせた。熟練者の目が必要だとされていた作業が、AIに受け渡された瞬間だ。
データを工場の外に出さない設計
製造業がAI導入をためらう最大の理由は、データの流出リスクだ。生産ラインの稼働データや品質記録は、競合に渡れば致命的な機密になる。クラウド型のAIサービスを使えば、そのデータは必然的に社外のサーバーへ送られる。
Kozuchi Enterprise AI Factoryは、この壁を設計段階で取り払った。工場のデータは工場の中だけで処理される。外部のクラウドには1バイトも出ない。7,700種以上の脆弱性スキャンとガードレール技術を内蔵し、セキュリティ基準を工場側でコントロールできる仕組みにした。
このAIは2026年7月、日本と欧州で正式に提供が始まる予定だ。だが、なぜこれほどの仕組みが必要とされているのか。その問いは、熟練工が現場に残してきた「判断」の問題に行き着く。
熟練者の「点と点をつなぐ思考」をAIで再現する
熟練工が使っていたのは一枚の記録ではない。設備の点検ログ、過去の修理履歴、品質検査の結果——複数の文書を頭の中で横断しながら「この症状、3年前にも出た。あのとき原因は○○だった」と判断する。その「つなぎ合わせる力」が、経験の正体だ。
富士通と協力するスタートアップ・Thingsは、この「横断」をAIで再現する仕組みを開発している。複数の記録に散らばった手がかりを自動でつなぎ合わせ、根本原因まで辿り着く技術で、製品設計データや過去の不具合情報と組み合わせることで分析精度を高めることに成功している。同技術は現在、Kozuchiの中で試験運用の段階にある。
熟練工の頭の中で起きていた「点と点をつなぐ思考」を、AIが構造的に引き継ごうとしている。その熟練工が今、工場を去りつつある。
実証実験が示した数字
「本当に使えるのか」——その問いに、数字が答える。Kozuchiが現場に入った企業では、これまで人手に頼っていた作業がAIに置き換わり、精度でも時間でも具体的な成果が出ている。
欠陥検出99.32%と、作業時間の可視化
欧州の樹脂製品メーカー・REHAUの事例がある。同社の工場には20万種類を超える製品がある。建材や工業部品に使われるプロファイル——断面形状を持つ樹脂製の部品——で、形状も素材も一つひとつ異なる。その欠陥を人間の目で全数確認するのは、もはや不可能な規模だ。
Kozuchiを使った検証では、テストデータセットに対して99.32%の精度で欠陥を自動検出した。見落としはほぼゼロに近い水準だ。
富士通グループのシステム会社での運用でも、別の変化が起きた。「作業者分析コンポーネント」を導入し、これまで一括りに「稼働時間」と記録されていた時間を二つに分けられるようになった。実際に手を動かしている「正味作業時間」と、段取りや待機など作業の外側にある「付帯時間」だ。品種別・作業者別に数値を出すことで、どの工程で時間が消えているかを定量的に把握できるようになった。「なんとなく遅い」という感覚が、「どこに手を打つべきか」という数値に変わった。
「壊れる前に手を打つ」への転換
設備の突発停止——製造現場では「ダウンタイム」と呼ぶ——は、計画外のコストをまとめて引き寄せる。修理費だけではない。ラインが止まる間の人件費、廃棄になる仕掛品、遅れる納期。そのすべてが損失だ。
Kozuchiが目指すのは、機械の振動パターンや温度変化を継続的に監視し、「この傾向は故障の前兆だ」と事前に警告を出す仕組みだ。「壊れてから直す」から「壊れる前に手を打つ」への転換——この発想の切り替えが、突発ダウンタイムを抑え、保全コストを下げる。
熟練工が「この音はいつもと違う」と感じ取っていた判断は、AIの中では振動値の変化として数値に置き換えられる。直感が計測値になることで、その知識は一人の職人の頭の中から、工場全体が共有できる資産へと変わる。
7月正式提供と、その先の自律AI
こうした実証の積み重ねを携えて、2026年7月、Fujitsu Kozuchi Enterprise AI Factoryは正式に稼働を開始する。対象は日本国内だけではない。欧州——とりわけドイツをはじめとする製造業大国——でも同時に提供が始まる。工場のデータが外に出ない設計は、GDPRをはじめ欧州の厳格なデータ規制にも応えられる構造だ。
導入にあたっては、既存設備のセンサーやデータ収集基盤との接続作業が伴う。富士通は個別の工場環境に応じたインテグレーション支援も提供する方針だが、ライセンス体系や導入期間の詳細は現時点では公表されていない。
富士通が見ているのは、7月の先にある。現在のKozuchiは、ログを読んで原因を探し、担当者に「これが怪しい」と提示する。人が判断し、人が動く。だが富士通のロードマップには、その先の段階がある——稼働データの変化をAI自身が検知し、解決策を選び、人の指示を待たずに次のAIへと指示を出す「プロアクティブ型の自律AIエージェント」だ。AI同士が判断の連鎖をつなぐ工場、というイメージだ。
富士通×シーメンス:CESでの産業AI連携宣言
この構想は、富士通単独のものではない。2026年1月のCES(世界最大級の家電・技術見本市)では、富士通と独シーメンスが産業AI分野での連携を宣言した。両社の合意は、富士通のKozuchiが持つAI解析能力と、シーメンスの産業オートメーションプラットフォームを組み合わせることを指向しており、製造ラインの設計から保全までを一体で扱う統合環境の構築を視野に入れている。
熟練工が去ったあとも工場が判断を続けられるための土台——富士通がKozuchiで目指しているのは、便利なツールの提供ではなく、その土台そのものを置き換えることだ。その土台が7月に現場へ降りてくる。その先に何が待っているのかは、まだ誰にも断言できない。
