2026年3月、ラスベガスで開かれた半導体の祭典「Nvidia GTC」で、フランスのAI企業Mistral AIが新しいプラットフォーム「Forge」を発表した。採用企業として名前が並んだのは、半導体製造装置の世界最大手ASML、欧州宇宙機関(ESA)、シンガポールの国防研究機関——ChatGPTのようなAIをそのまま使えない立場に置かれてきた組織ばかりだ。
汎用AIが届かない企業がある
ChatGPTに質問を入力するとき、その文章はOpenAIのサーバーに送られて処理される。日常の調べものなら問題にならない。だが、送ろうとしているのが未発表の半導体設計図や、外部に一切公開していない金融分析の手法だったとしたら——その瞬間に、機密情報が自社の外へ出ていく。
国防・宇宙開発・金融といった業界では、扱うデータの性質上、外部サーバーへの送信を法律や規制で厳しく制限している組織が多い。「API」とはAIと外部サービスをつなぐ接続口のことだが、その接続口に機密データを流すこと自体が、そもそも許されない。ある大手ヘッジファンドは、独自に開発した計量分析の手法を外部のクラウドに預けられないという理由だけで、汎用AIの活用を断念してきた。
もう一つの壁がある。仮に送れたとしても、汎用AIはインターネット上の公開情報で学習しているため、各社の社内用語や独自の設計基準を知らない。専門的な質問ほど、もっともらしく間違えた答えを返す——業界ではこれを「ハルシネーション」と呼ぶ。ASMLが数十年かけて社内に蓄積してきた工学ドキュメントや設計データは、ChatGPTの学習データには含まれていない。聞いても、的外れな答えしか返ってこない。
「使いたいのに使えない」と「使っても精度が出ない」。この二重の壁が、最もAIを必要としているはずの組織を、AI活用から遠ざけてきた。
Forgeが企業に提供するもの
その壁に対して、Mistral AIが作ったのがForgeだ。「企業が自分たちのデータだけを使ってAIをゼロから育てる」ための場所——既製品のAIを導入するのではなく、自社の情報を原材料にしてAI自体を組み立てる仕組みだ。
ただし、企業が単独で作業するわけではない。Mistralが「フォワード・デプロイド・エンジニア」と呼ぶ専任技術チームが、何を学ばせるかという計画段階から伴走する。製品を渡してあとは任せるモデルではなく、導入から運用まで担当エンジニアが関わり続ける。
自社データでモデルの知識の土台を作る
ChatGPTのような汎用AIは、インターネット上の公開情報を読み込んで作られている。世の中の知識は広く持っているが、各社が社内に積み上げてきた固有の知識は持っていない。
Forgeはその土台を、企業独自のデータで作り直す。自社の設計書や業務記録をAIに読み込ませる「事前学習」と呼ばれる作業から始まり、その会社だけが知っている知識をAIの根幹に埋め込む。そのうえで特定の業務に特化した調整を加え、最後に正解・不正解のフィードバックを繰り返す「強化学習」で精度を引き上げていく。
半導体製造装置の世界最大手ASMLは、数十年分に及ぶ工学ドキュメントと設計データをForgeに読み込ませた。一般には公開されたことのない技術情報だ。欧州宇宙機関(ESA)は、秘匿性の高い宇宙開発データを使ったモデル構築のためにForgeを選んだ。ある大手ヘッジファンドは、外部クラウドには出せない独自の計量分析手法をそのままAIに読ませ、社内専用の判断基準を持つモデルを完成させた。
AIが自律でモデルを最適化する設計
性能を上げるたびに専門家が細かく指示を出し直す必要はない。ForgeはAIが自分自身でパラメータ(内部の調整つまみ)を最適化していく設計になっており、設定した目標に向けてAI自身が学習を積み重ねていく。完成すれば、業務を自律的に実行する「エージェント」として、自社の現場に組み込むことができる。
完成したAIは自社のサーバーの中だけで動く。Mistral側のシステムには接続しない。何を学ばせたかも含め、Mistralは顧客のデータに触れることができない設計だ。
こうした仕組みへの需要が市場を動かし、Mistral AIの年間収益は前年比で20倍に急成長した。ただし、Forgeの力を引き出すには前提条件がある。AIに読ませるデータが整理されていなければならない。ある調査では、回答企業の42%が「業務時間の半分以上をデータの整理・管理に費やしている」と答えており、自社専用AIを本格的に育てられるだけのデータ基盤を持つ企業はまだ限られる。
極秘データ組織が採用した理由
採用した組織の顔ぶれを見れば、Forgeが何のために作られたかがわかる。半導体、宇宙、国防、金融——業種はバラバラだが、理由は一つに収斂する。外に出せないデータがあり、そのデータこそをAIに読ませたかった。
ASML・宇宙機関・国防機関の採用背景
ASMLはオランダに本社を置く半導体製造装置の世界最大手だ。この会社が持つ工学ドキュメントは、数十年をかけて社内に積み重ねてきた設計知識の塊であり、外部には一切公開されていない。Forgeはそのデータをそのまま学習材料にし、「この会社でしか通用しない専門知識」を持つモデルを作り上げた。汎用AIにASMLの設計図について聞いても、学習データに含まれていないから的外れな答えしか返ってこない。
スウェーデンの通信機器大手エリクソンのケースはさらに具体的だ。同社は50年にわたって独自のプログラミング言語を使ってきた。インターネット上にほぼ存在しない言語だから、ChatGPTはその構造を理解できない。Forgeにその言語のコードを大量に読ませることで、汎用AIには不可能だったコード移行の作業を大幅に短縮した。
欧州宇宙機関(ESA)とシンガポールのDSO国立研究所が採用した理由は、ほぼ同じ構造だ。宇宙開発の技術情報も、国家安全保障に関わる業務記録も、外部のサーバーに送った瞬間に機密性が失われる。大手ヘッジファンドも同様で、独自の計量分析手法は競争優位の源泉であり、それを外部クラウドに預けることは選択肢にない。
ヨーロッパ企業の採用には、もう一つ法的な背景がある。EU圏では「GDPR」(欧州個人情報保護規則)により、個人データを含む情報を米国のサービスに送ることに厳しい制限がある。米国系のクラウドAIを使うたびにこの問題が生じるため、データが国外に出ないForgeへの需要がヨーロッパで特に大きい。
データを外に出さない4つの展開方式
採用組織が共通して求めたのは、データが物理的に自社の管理下から出ない仕組みだ。Forgeはそのために複数の設置方式を用意している。自社サーバー上で動かす方式、自社専用のプライベートクラウドに置く方式、データが国内にとどまることが保証された国内データセンターに設置する方式——組織の規制や方針に合わせて選べる構造になっている。
どの方式でも、完成したAIはMistralのシステムには接続しない。何を学ばせたかを含め、外部に漏れる経路は設計上存在しない。国防機関が採用できる理由がここにある。データの物理的な所在地を自分たちが管理し続けるという条件を満たした上で、最先端クラスのAI性能を手に入れられる——それ以前には、この二つを同時に実現する手段がなかった。
AIを持つ選択が問われる局面
売上20倍という数字が、市場の規模を教えてくれる。Mistral AIの年間収益は2025年の2,000万ドルから2026年には4億ドルへ急拡大した。Forgeはその成長を支える主力製品であり、「外に出せないデータでもAIを育てたい」という需要がどれだけ積み上がっていたかを、この数字が裏付けている。
外部のAIサービスを「借り続ける」選択には、一つのリスクが伴う。ベンダーがモデルを更新するたびに、同じ質問への答えが変わる可能性がある。業務プロセスに組み込んだAIが、ある日突然別の挙動をするようになる——その不確実性を嫌い、自分たちでコントロールしたいと考える企業が増えている。LLMを使っている企業の76%が、商用AIと並行してオープンソースのAI(無償で公開されているAI)も活用しているというDatabricksの調査は、その流れを裏付けている。Forgeの方向性は、この動きと一致している。
ただし、「持てる時代」が来ても、持ちこなせる企業はまだ限られる。企業の42%が業務時間の半分以上をデータの整理・管理に費やしているというFuturumグループの調査がある。Forgeに学ばせるデータは、整理されていなければ意味をなさない。ASMLやエリクソンが成果を出せたのは、数十年分のデータが体系的に蓄積されていたからでもある。技術の扉は開いた。だが、その先に進める組織はまだ一握りだ。
